「ルリボシカミキリの青」 福岡伸一 …なかなかよかったよ。
P11
私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことがそのまま職業に通じる必要は全くないんだ。大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そしてその好きなことがずっと好きであり続けられることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりともあきさせることがないということ。そしてそれは静かに君を励ましつづける。最後の最後まで励ましつづける。
P20-21
謎の物質の物語
謎の物質があった。科学者達たちはこの物質の重要性に気がついていた。しかしその構造は不明だった。強い酸とともに煮ると、物質はバラバラに壊れた。破片を調べてみると化合物、A、B、C、Dの四種類からなっていた。その後、謎の物質はいろいろな場所から見つかった。物質はどれもA、B、C、Dの四要素のみからなっていた。しかし、四要素がどれくらいずつ含まれるからには規則性がなかった。ある場所からとってきたサンプルには、Aが多く、別の場所からとってきたサンプルには、Cが多く含まれていた。どうやら四要素は数珠玉のように連結しているようだが、その並び順にも特別な法則はなさそうだった。しかしこの物質の謎を解明すれば、世界を征服できる。皆そう信じていた。
老学者が長考のすえ、ある事実に気づいた。そこにはとてつもなく大切な秘密が隠されているように誰もが感じた。しかし誰ひとりその意味を読み解くことができなかった。老学者が見つけたのはこういうことだった。この物質は、A、B、C、D四つの要素からなりたっていて、その含有量はサンプルによって違う。しかし、どのサンプルでも、Aの量とBの量を比べると同じであり、Cの量とDの量を比べてもまた同じである、と。
老学者は、自分が聖杯のありかまであと一歩に迫っていることを知っていた。自分が勝利者になることを確信していた。昼も夜も、書いては消し、ためつすがめつ考えたがどうしてもわからなかった。そんなある日、風の便りが流れてきた。異国の名も知らぬ若者が、謎を解いたと、老学者は耳を疑った。そしてそれが根も葉もない間違いであることを祈った。しかしそれは虚報ではなく事実だった。
謎の物質は確かに四つの要素が数珠玉のように連なるひも状の構造をしていた。しかし重要なことはそのひもが一本ではなく、二本あるということだった。そして二本あるひもはそれぞれ独立して存在するのではなく、ファスナーのように互いに向かい合っている。一方のひものAの一に対応して、他方のひとのその位置にはBが、一方のひもにCがあれば、他方のひもにDがおかれる。AとB、CとDはちょうどパズルのピースのように組み合わさることができる。一方のひもが、ABBADCBという連なりを持てば、他方のひもは、BAABCDAという配列をとる。ゆえにこの二本のひもからなるファスナーの要素をバラバラにすると、Aの量=Bの量、Cの量=Dの量となる。老学者は眼を閉じて天を仰いだ。遺伝物質DNAの謎が明らかとなった瞬間だった。なぜこのような構造が重要なのか。それは一方のひもの情報があれば、他方のひもの情報が決定できるからである。ファスナーは二つ分かれて、それぞれ新しい相手を作る。するとファスナーは二倍に増える。つまりDNAはその美しい構造のうちに、自己複製するための機能を過不足なく内包していたのである。
P39
消化管におけるこのような「見張り役」の発見は世界で初めてのことである。いったんは探すのをあきらめかけたGP2の機能にはこんな隠れた働きがあったのだ。この発見は、科学専門誌『ネイチャー』(2009年11月12日号)に掲載された。これは福岡ハカセにとっても、大切に育ててきたマウスたちにとっても、とてもうれしい出来事となった。
P61
新種の発見者となる夢はもろくもついえた。しかしその日、私はもっと大きな発見をした。こんな生き方があるということを知ったのだ。
P63-64
…なかでも大切な料理の基本は、いかに段取りよく作業を進めるか、ということだった。限られた時間で、手際よく何品かのメニューを作る。そのためにはまず最初に工程をよく見渡して、何をどのような順番でどうこなしていくか、必要なら片づけのことまで考えて調理器具や食器を選ぶ。そのすべてをまず想像することが一番重要だということである。鳥のスープなら、包みを開けるよりもなによりも先に大きな鍋にたっぷりとお湯を沸かすことから始める。あれこれいろいろ始めてその地点に至った後、ああそうだお湯を沸かさなきゃ、ではだめなのである。研究や実験もまさに同じ。このコンセプトはその後、人生のあらゆる局面で役立った。
P76-77
…教育にたずさわる私たちは何ごとかをもっともらしく語ることはできる。けれどもそれは彼ら彼女らの内部にどれほど深く届いているのか、渇きをいかほどかいやし、果して新たな思想をはぐくみうるのか。それは実際のところほとんど期待できないことであり、期待してはいけないことなのだ。
P78
中学だったか高校だったか、顔や名前すら忘れてしまったが、あるとき数学の先生が教えてくれた。関数、関数って教科書に書いてあるけど、これはほんとうは函数と書くんですよ。つまり函があってこっちから数をいれるともう一方からポンと別の数が出てくる。そういう仕組みが函数なんです。そうなんだ。それ以降、三角関数でも指数関数でも、関数が出てくるたびに私にはそれがちゃんと函に見えた。
P81
…しかし「偶然そうなったとは思えない」出来事は、ずっと昔、ヒトがごくごく狭い生活圏にと限られた体験にもとづいて稀な事象を抽出していたからこそやくだったのだ。
ところが現在、私たちの直感はそれほど変化しないまま、今や生活圏と体験はネットやメディアによってバーチャルなものとして地球規模にまで拡大している。そこにあるのは巨大な母集団である。「偶然そうなったとは思えない」出来事はいくらでも起こりうる。
P83-84
…時々、教師はレコーダーを止めて、ここは変わった言い回しですねとか、この発音は聞き取りにくいねえ、などと注釈とも感想ともつかないことを述べた。なんだこれ、ひどい手抜き授業だ。講義が終わって教師が帰ると、私たちは口々に文句を言い合った。
P84
…そう、あの教師は、自分が知ってうれしかったこと、学んで面白かったことを私たちに伝えてくれたのだ。
P87
呼気に含まれるCO2は大気中の約一〇〇倍。一週間に人間が排出する炭素の重さは実に五~六kgにもなる。これこそがまさに食べたものの燃えカスだ。これに汗や呼気中の水蒸気などの水分の排出を足し合わせるとようやくインプットの一五kgと収支があう。でも授業の本番はこれから。自分が出したCO2の行方を追うのだ。想像力で。教室を出たCO2は、校庭の草や木に吸収されて葉っぱや実になる。それを虫が食べる。鳥が海を渡りその途中でフンを落す。それを小さなプランクトンが食べる。プランクトンは魚の餌。小魚をマグロが食べる。そのマグロは君の大好きなお刺身となって、君の身体に戻り、しばしとどまりやがて抜け出ていく。
食べるという行為を通して、呼吸の中を分子が循環し、自分が吐いたCO2がまわり回ってまた自分たちに戻ってくる。生きているとはこの流れのこと。流れを止めないために私たちは食べる。
P96
…教えることは同時に教えられることでもある。
P97
…今、思い返してみると無味乾燥な受験勉強にもいろいろな副産物があったのだ。特に国語の問題文は、そこで強制的に読まされるのでなければなかなか出会えない著者をかいま見る、またとない機会を与えてくれた。
P98-99
かくいう福岡ハカセももちろん頻出とまでは全然いかないけれど、自分が書いたものが入試や模試の問題にときどき使われるようになった。若い人たちに読まれていると思うと、たいへん光栄なことである。一方で拙文についてあれこれ悩ませているとすれば何だか申し訳ない。
もちろんことの性格上、事前に通知はない。無断借用である。しかも著作権料なども発生しない。これは公益目的の引用ということで法的にも認められているそうだ。ただ、事後には一応、お知らせがくる。問題の写しといっしょに。S台予備校は、私の書いた新書のエピローグをまるまる使って模擬試験を作っていた。添えられた分厚い解説を見て、その深い読みに私は脱帽した。この文章で、私は、少年時代の二つの思い出を書いた。ひとつは採集した蝶の蛹を倉庫にしまったまま忘れて、次の年になっておそるおそる開けてみたということ。もうひとつは、トカゲの卵が孵化するのを待てずに、覗き穴をあけてしまったこと。解説によれば、この二つのエピソードは、著者にとって生命をめぐる感慨として見事な対称を成している。ひとつは生命の自律性について。他方はその生命の脆弱さについて。すごいなあ。こんなことは書いている最中には(そして書いたあとも)著者自身、全く思いつかなかったことである。
P101-102
昔、こんな話を聞いた。十分練りに練った問題(入試問題)を出題した。出題者は考えさせる良問だと自負していた。ところが、試験開始後、しばらくたった時のこと。待機室に緊急連絡が入った。受験生から質問が出ています。「問題が解けない。数値が間違っているのではないか」と。馬鹿な。そんなはずはない。この場で簡単に模範解答を作ってみせるよ。ところが出題者は紙に鉛筆を走らせたまま、一向に顔を上げない。そればかりではない。何度も何度も計算をやり直している。額には汗。口からはうなされたような独りごとが絶え間なく発せられる。かなりの時間が経過した。まだ解けない。試験中の質問には何らかの回答が必要だ。訂正も時間内ならばなんとかなる。しかし解けない。おかしい。出題者仲間もそれぞれ解答を試みるが、皆、焦るばかり。そもそも出題者本人も解けない問題が解けるはずがない。待機室はパニックに陥った。そのまま時間切れ。試験は終了した。
あとになって重大なことが判明した。なんと文中に与えられた数値の小数点がずれていたのである。誰も気づかなかった。校正でも見過ごされていた。しかしミスはミスであり、しかも決定的なミスだった。そのうえ設問の配点が大きかった。混乱はあとあとまで尾を引くことになった。
福岡ハカセは出題者の焦燥が手に取るようにわかる。自分が作った、解けるはずの問題がどうしても解けない。必死に走っているのに身体が前に進まない。カフカ的状況。この悪夢に心底震撼する。それは明日にもやってくるかもしれないのだ。
P108
…近代科学は、世界を分けて分けて分けてきた。そして何かを分かった気分になった。でもそれは幻想だった。パーツはどこまでいってもパーツでしかない。遺伝子はすべてゲノムから切り取られた、解読されたけれど、生命のありようは何も解けてはいない。分けた瞬間に失われたものがあるからだ。
P114-115
…そもそも論をいえば、狂牛病は、牛が狂った病気というよりは、人が牛を狂わせた病気、つまり人災である。だから福岡ハカセはこの病気を無機的に「BSE」と呼ばず、狂牛病と呼びつづけるべきといってきた。英国で牛を早く太らせ、たくさんミルクを取るために、家畜の死体を原料に作った肉骨粉を食べさせた。草食動物を肉食動物にかえた上に共食いを強要した。そこに病原体が紛れ込んで、牛が一斉に感染した。病死した牛が再び餌となって被害が拡大した。しかも一九八〇年頃、原油価格の高騰を受けて、肉骨粉製造の加熱工程が簡略化され、病原体が生き残るチャンスを広げた。肉骨粉が原因と判明したあと英国はこれを禁止した。しかしそれは国内の話。汚染された飼料は英国外に流出し、それが狂牛病を日本や米国にまで飛び火させた。つまり狂牛病禍の裏には二重三重の人為の連鎖がある。
P119
死体さえ存在しなければ、殺人事件は立件できない。死体を完全に消し去ることは可能だろうか。古来、様々な方法が試みられ、いずれも無残な失敗に終わった。山林に埋めれば野犬が掘り返し、骨や毛髪は長期間残存する。重りをつけて海中に沈めれば、体内にたまった腐敗ガスが巨大な浮力となって浮かび上がる。
バラバラにするのも全くたやすいことではない。なぜなら生物としてのヒトの身体はとてもウエットで、かつハードで、かつリアルなものだから。筋肉は強靱な腱組織が走る固い組織である。そして骨。これを切断するのは大仕事である。大腿骨は太くて長い。頭蓋骨は大きくて重い。とても台所の包丁や日曜工具ののこぎり程度でこなごなにできる代物ではない。
P124-125
…たとえ一日中ヒッキーしてても、心臓と肺を動かし、体温を維持し、細胞を活動させるエネルギー。この必要なエネルギー量が、成人で一日あたりおよそ二〇〇〇キロカロリー。
つまりケーキ一切れは五〇〇キロカロリー。もし、あなたが朝から何も食べていなければ、このケーキをペロリと食べても一グラムたりとも太ることはありません。五〇〇キロカロリーはすべて基礎代謝に必要なエネルギーとして燃やされて、燃えカスは水と二酸化炭素となって呼気や汗とともに排出されてしまうから。
P126
キリンの首はなぜ長い? キリンは高いところにある葉っぱが食べたくて、首をのばそう、のばそうと日々、そして世代を超えて努力しつづけました。こうしてキリンの首はだんだん長くなっていったのです - 今日の生物学において、このような説明の仕方は、あっさり、きっぱり、完膚なきままに否定されている。
P127-128
それに関してこんな帖佐がある。一流と呼ばれる人々は、それがどんな分野であれ、例外なくある特殊な時間を共有している。幼少期を起点としてそのことだけに集中し専心したゆまぬ努力をしている時間。それが少なくとも一万時間ある。一日三時間練習をするとして、一年に一千時間、それを十年にわたってやすまず継続するということである。その極限的な努力の上にプロフェッショナルという形質が獲得される。それをあえて強要する環境が、親から子へ伝わっているのだ。
そう思うと別の、ある事実が納得できる。一国の主に限らず、議員でも会社でも芸能界でも、どんな組織にあってもいわゆる二世、三世はおしなべて、なぜ、かくも弱く、薄く、粘りがないのか。それは外形だけは親から伝えられているものの、肝心の一万時間の内実が与えられていないからである。
P130
…生物学は「なぜ(why)疑問」には本質的に答えることができない。せいぜい「いかにして(how)疑問」になんとか答えられるかどうかが関の山なのである。
P145
…福岡ハカセが驚いたのは、アクアフェアリー社というベンチャーが開発した、超小型の純水素型燃料電池。水素は低炭素社会の究極の切り札と目されている。エネルギー源として、石油や石炭でなく水素を使う。化石燃料は燃やすと二酸化炭素が出る。でも水素は燃やすとエネルギーと水になるだけ。その志やよし。問題はどうやって水素を作り出すか。どのようにして水素を貯めておくか。そのインフラが出来ないと水素エネルギーは夢想でしかない。でも大規模な仕組みではなく、せめて身の回りの機器、携帯電話やパソコン、音楽機器やデジカメといったものだけでも、水素社会を先取りできないか。それができちゃったのである。ちょうどUSBメモリースティックをちょっと太くした程度の大きさ。ブラックボディ。細かい穴があいている。カートリッジを差し込むと内部で水素が発生し、電気が生み出される。技術の鍵はカートリッジ中の水素発生剤である。わかったらあまりにもありきたりなものですよ、と開発者は笑ったが、化学を一通り勉強したはずのハカセもそれが何であるか全く想像できない。公開される日が楽しみ。とても有望な発明ではないか!
P153
…最長の皆既日食は、七分半。二一八六年七月十六日、南米ガイアナ沖で観測される。福岡ハカセも読者のみなさんも見ることはかなわない。人生は短く、宇宙はあまりにも悠久だ。
P165
…ハカセにはなったものの日本に職がなかった福岡ハカセは、拙い英語で求職の手紙を何十通も書いた。どこの馬の骨ともつかない東洋人を唯一、拾ってくれたのがここだった。
ここ→マンハッタンの北東部、観光客もそこまでは足をのばすこともないひっそりした区域にある古びた研究所
P166-167
…しかし彼ら・彼女らを特徴づけているのはその視点である。さらにいえばその視点の深度にある。校正者さんは、執筆者のように自己陶酔していない。編集者のように社交的でもない。読者代表でありながら、ストーリーに没入することを自ら禁じ、かといって表層的な書き間違いや表記の不統一だけを探しているわけでもない。深すぎず・浅すぎず、一定の深度を保ちつつ、水中のタナをスキャンして魚を探る熟達の釣師のような存在なのだ。
P167
書き手、編集者、校正者。この間のてまひまが活字というものを支えているのである。
P171
…コンピュータ上で文字を読む時、最大の問題は画面がどこまでもスクロールできてしまうことである。
P172-173
大学で教えているといつの頃からだろうか、辞書をパラパラ引く学生が全くいなくなった。福岡ハカセは今だに英語は黒くて分厚い研究者のリーダーズ英和辞典をめくらないと調べた気がしない。しかしきょうびの学生はパカッと電子辞書を開いてカチカチ文字を打つだけである。なんだかなあと思う。
しかしこれはあくまで私たち旧世代人間の視点である。これから生まれてくる子供たちにとってPCやネットや携帯電話は生まれたときからそこに存在するものとしてある。彼らにとってそれはハイテクでもなく、ローテクでもない。アナログでもなく、デジタルでもない。彼らにとってそれは第一言語として目の前にある。どんな言語体系でもそれが第一言語なら、乾いた砂が水を吸い込むようにするすると学習できてしまう。それが脳の柔らかさだ。だから別に、書物がスクロールしようがリンクで飛ぼうがこれからの少年少女たちには何の違和感もないかもしれない。そうなれば紙の手触りやページをめくる感覚は、私たちの世代とともに消えゆくものかもしれない。
P177
…わたくしが感じ、心が動揺し、自己を実現したいのはすべて脳が作り出したはかない何ものかに過ぎない。
P177-178
確かに、脳がなくなれば自己が消えるかどうか、それは現代の最先端生物学が逆立ちしても実験できないことである。
P183
脳死を人の死とすることが決められてから十年以上が経過した。誰が決めたのか。「臓器の移植に関する法律」が、脳死した者の身体は「死体」に含まれると決めた。つまり、人が決める人の死は、生物学の死から離れて、どんどん前倒しされている。そしてその意図するところは、この法律の名のとおり、臓器移植を推進するためである。死体から、まだ生きている細胞の塊を取り出したいから。
P199
…なつかしさとは、いとおしいペットのような自己の記憶なのだ。時に人はそれに足をとら、しかし時にそれは解毒剤のように何かを溶かし慰撫してくれるものでもある。
P206
国際会議の公式宣言、政府の声明、専門家の提言。こういったものが環境問題を解決できたためしはない。
P206-207
(ルネ・)デュボスには、この際限のないいたちごっこが見えていたのだ。彼は環境思想家として活動を始めた。
P207
…そしてルネ・デュボスは一つの標語を提案した。三十年以上も前のことである。しかもそれは今なお新しい。
Think globally, act locally.
P208
福岡ハカセは一介の生物学者に過ぎないけれど、ずっと生命のことを考えてきた立場からすれば、端的にいって、臓器移植という行為にかぎりない危惧を感じる。生命を構成する細胞は互いに関係しあっている。それゆえ生命は身体全体に宿っていると考えるからである。
P210
日本ではこれまでに八十一例の臓器移植が実施された。移植法を見直すのであれば、まずこれらについて、十分な有効性が検証され、またそれぞれのケースでドナー、レシピエント双方が何をどう感じ、今どのように考えているのか、きめ細かい調査が必要であろう。本人の積極的な拒否の意思表示がなければ、家族の同意だけでドナーになりうるというあり方も問題だ。子供の脳死については未解明のことが多い。脳死状態での生存が長期間継続する例がある。こんな状況にもかかわらず、あっという間に参院でも可決され、人の死が法律で確定されることになってしまった。
P212
…ずっと昔、抗体が作り出される仕組みは、外敵の侵入後、その形態に応じて急遽、合致する抗体が生産されると考えられていた。ところがこれは間違いだった。どんな外敵がやってきてもすぐに応戦できるように百万通り以上の抗体があらかじめ私たちの免疫系の中に用意されていたのだ。
P213
地にあたる、残りの免疫細胞たちがなににどのように反応するか。それは免疫系と環境との相互作用で決められていく。本来、どこにでもあり、病原体のように増殖したり害作用ももたらすことのない、スギ花粉にも敏感に反応してしまうのが私たち非寛容なひとなのだ。
P219
…マイケル・ジャクソンのムーンウォークやロボット的な動きは、故意に、互いに他を律することをやめ、パーツが独立してふるまう動きだけを強調している。そこでは生命が消え、機械が浮かび上がってくる。
P220
目に見えないけれどこの世界にはいろんな細菌がうじゃうじゃいる。机の上にも、空気中にも、手の表面にも。そして細菌はあらゆる食べ物に付着している。それを栄養源に、あっという間に細胞分裂して、二倍、四倍、八倍と倍々に増える。その過程で細菌は酸を出し、いやな臭いを発し、下手をすると毒素まで作る。
P223
…ハチたちは、こうして朝から晩まで働きづめに働いていった数週間のいのちを終える。
P237-238
古い諺に、「馬を水辺に連れて行くことはできても、馬に水を飲ませることはできない」というものがある。私は、いつも自戒の意味を込めてこの言葉を反芻する。この諺は、学びという行為の不可能性を言い当てている。どんなに学ぶことが面白いことかを力説したとしても、実際に面白さを強いることは誰にもできないと。しかし、同時に、この諺は、学びという行為についてのある種の希望として読むこともできる。少なくとも私は、誰かを水辺に誘うことはできるかもしれない。あるいは、青の青さを、翅の輝きをほんとうに伝えることはできないけれど、誰かがその場所から出発し、かそけき星を求めてさまよう旅程を語ることならできるかもしれないと。